「この子はフィラリア陽性です」
保護犬の譲渡現場で、この一言が出た瞬間に、検討が止まってしまうことがあります。先ほどまで興味を持っていた人が、少し距離を取る。その光景は珍しくありません。
海外のシェルターの報告では、フィラリア陽性の犬は陰性の犬に比べて譲渡率が低下(シェルター滞在期間が延長)するとの報告もあります。
しかし、この差の多くは病気そのものの重さというよりも、治療内容への不安や情報不足などが大きく影響していると考えられます。

フィラリアは「環境によって起こる感染症」
フィラリア(犬糸状虫症)は、蚊を介して感染する寄生虫症です。
予防薬が普及している現在でも、予防が行われていなければ感染は十分に起こり得ます。
実際、保護犬の背景を見ると、以下のようなケースが少なくありません。
- 野犬として生活していた
- 外飼いやネグレクトで医療管理がされていなかった
こうした環境下では、フィラリア陽性であることは珍しいことではありません。
私自身、獣医師として、さらに保護活動を行うものとして多くの犬を診てきましたが、野犬出身や外飼いされていた犬では、一般的な都内の患者に比べ、フィラリア陽性の個体に出会う頻度は高いと感じています。
これはその犬の体質や性質ではなく、人間側の管理が及ばなかった結果です。
フィラリアはゆっくり進行する病気
フィラリアは急激に悪化する病気ではなく、数年単位で進行していく慢性疾患です。
感染初期から軽度の段階では、ほとんどの場合症状は見られません。
健康診断や保護時の検査で偶然見つかることも多く、この段階の犬は日常生活にほとんど支障がありません。
感染が進行すると、咳や運動時の疲れやすさといった症状が出てきます。さらに進むと、呼吸困難や心不全などの重い症状に至ることもあります。
ただし、軽度から中等度に進行するまでには数年以上を要することが多く、保護時の検査で見つかる犬の中には、無症状〜軽度の段階で発見される個体も少なくありません。
そして、早い段階で治療を始めるほど、フィラリアの陰性化や臨床的な改善は見込まれやすくなります。

フィラリアは治療可能
フィラリアは「完治が難しい病気」と言われることがありますが、実際には時間をかけてコントロールし、陰性化を目指すことができます。
一般的な治療期間は1〜3年程度とされており、個体差はありますが、軽度で治療介入したケースの多くは、長くても数年以内に治療が完了します。
※注意点 進行度によっては、虫体がいなくなった後も心肺や血管への影響が残ることがあります。そのため、陰性化だけでなく、心肺状態や生活管理も含めて評価していく必要があります。
治療の実際(スローキル療法)
国際ガイドラインではメラルソミンによる成虫駆除が標準推奨となっている一方、日本では販売が中止されています。
そのため、国内で主流となっているのは、日常生活を維持しながら進める「スローキル療法」です。
具体的には、以下のような構成で管理を行います。
- 月1回のフィラリア予防薬の投与 治療の中心となるもので、健康な犬の「予防」と同じ習慣です。
- ステロイドの併用 フィラリアが死滅する過程で起こる炎症反応を抑えるため、リスクや症状に応じて併用します。
- 初期の数週間の抗生剤(ボルバキア療法) フィラリアは体内に「ボルバキア」という共生細菌を持っています。抗生剤でこの細菌を減らすことで、フィラリアの活性を低下させることができます。使用する抗生剤は数週間の内服であり、数年間継続するものではありません。
このように、多くの場合は内科的な管理を中心に進めますが、フィラリア症の状態に応じて検査や治療が選択されます。
費用面については、スローキル療法であれば、使用する上記の薬剤はいずれも一般的なものであり、極端に高額になるケースは多くありません。(状況によっては、その他の症状に対する治療や検査が必要な場合があります。)
状態によっては運動量を調整しながら治療を進めることもあり、まれに重症例では外科的な治療が検討される場合もあります。

1年で治療完了するケースも
これまでに私がレスキューや医療ケアで関わった犬の中には、少なくとも3年以上フィラリア陽性の状態が続いていた個体がいました。地方での生活歴があり、予防が行われていなかった飼育放棄犬のケースです。
この犬に対して、月1回の予防薬と抗生剤によるスローキル療法を行った結果、半年程度で陰性化に至りました。
その他の私が運営するレスキューグループの「Buddies」が譲渡したフィラリア陽性犬たちも、多くが 1〜1.5 年以内に陰性化しています。
いずれも日常生活を維持したままの治療です。
※これらはあくまで一例であり、体内の寄生数や重症度によって、治療期間や改善の程度には個体差があります。
早期介入が大事
フィラリアは、放置すれば進行しますが、適切に管理すれば改善に向かわせることも可能です。そして、治療は早く始めるほど有利です。
軽度の段階で介入できれば、治療期間の短縮や体への負担軽減が期待できます。

人や他の犬へ直接的な感染はしない
フィラリアについてもう一点、よくある誤解が「人や他の犬にうつるのではないか」という不安です。
結論から言うと、フィラリア(犬糸状虫)は蚊を介して感染する寄生虫のため、犬から人、あるいは犬から犬へ直接うつる病気ではありません。
・他の同居犬への感染: 同居犬が通常通り月1回のフィラリア予防を行っていれば、万が一周囲に感染源となる蚊がいても問題ありません。
・人への感染: まれに蚊を介して人に感染した報告はありますが、人間は本来の宿主ではないため、体内で成虫まで発育することはめったにありません。
そもそもフィラリア感染のリスクは、保護犬に限らず日常環境(全ての犬)に存在しているものです。
特別に陽性犬を避ける対象にするのではなく、「どの犬も同様に予防していくべき感染症」と捉えるのが自然です。

フィラリア陽性犬を迎えるという選択肢を
フィラリア陽性という理由だけで、新しい家族の選択肢から外れてしまう犬たちがいます。
しかしその判断は、病気の実態ではなく、情報不足による不安に基づいていることが少なくありません。
状態や治療の現実を知った上で判断するだけで、見え方は大きく変わります。
その選択ができる人が増えることで、これまで機会を失っていた犬たちにも、新しい家族と出会う可能性が広がっていくことを願っています。
【参考・出典】