「妊娠したら、猫を飼うのは危険」
そんな話を聞いたことがある方もいるかもしれません。
その理由としてよく挙げられるのが、「トキソプラズマ」です。
確かに、妊娠中に初めてトキソプラズマに感染すると、胎盤を通じて胎児に感染し、流産や死産、胎児にさまざまな影響を及ぼす可能性があります。
そのため、注意が必要な感染症であることは間違いありません。
しかし、
「妊婦にとって猫は危険」
「妊娠するなら/妊娠したら、猫を手放した方がいい」
という理解は正しくありません。
実際に、飼い猫から妊婦への感染が成立するまでには、いくつもの条件が重なる必要があります。
では、どのような条件が必要なのでしょうか。
まず、妊婦自身が「初感染」である必要がある
トキソプラズマは、一度感染すると体内に残る原虫です。
健康な人では感染しても無症状のことが多く、自分が過去に感染したことに気づいていないケースもあります。
胎児への感染が問題となるのは、原則として、妊娠中または妊娠直前に母体が初めてトキソプラズマに感染した場合です。
日本で妊婦4,466人を対象に行われた研究では、10.3%がトキソプラズマ抗体陽性でした。つまり、約1割にはすでにトキソプラズマへの感染歴があったことになります。
そして、この研究から推定された妊娠中の初感染率は0.25%でした。[1]
ただし、これは「猫から感染した割合」ではありません。
生肉や土壌、食品など、すべての感染経路を含めた数字です。
さらに、この研究では、猫を飼っていること自体とトキソプラズマ感染との有意な関連は認められず、一方で生肉の摂取は感染リスクと関連していました。[1]
では、「自分の飼い猫から感染する」というケースが発生するためには、何が起こる必要があるのでしょうか。

実際に「飼い猫から感染する」には?
「猫がいる → 妊婦が感染する」
という単純な話ではありません。
実際に飼い猫から人への感染が成立するためには、いくつもの条件を満たす必要があります。
条件1 まず、猫がトキソプラズマに感染する
猫は、感染したネズミや鳥などの獲物を捕食したり、生肉を食べたり、汚染された土などを口にしたりすることで、トキソプラズマに感染します。
そのため、屋外に出て狩りをする猫では感染する機会が増えます。
一方、完全室内飼育で、生肉を与えられず、獲物を捕食する機会もない猫では、感染機会を大きく減らすことができます。
実際、日本の家庭猫を対象とした研究でも、屋外に出る猫や狩りをする猫では、トキソプラズマ抗体陽性率が高いことが報告されています。[2]
条件2 猫が「オーシストを排泄する時期」であること
猫がトキソプラズマに感染したからといって、その後ずっと糞便から感染源を出し続けるわけではありません。
猫は感染後、オーシストと呼ばれるトキソプラズマの形態を糞便中に排泄することがあります。
オーシストとは、トキソプラズマが猫の糞便とともに環境中へ排出され、その後成熟すると人や動物への感染源となる形態です。
猫がオーシストを排泄する期間は、一般的に初感染後の限られた期間で、通常1〜3週間程度とされています。[3]
北海道・十勝地方の家庭猫を対象とした研究では、351検体の糞便のうち、トキソプラズマのオーシストが検出されたのは1検体(約0.3%)のみでした。[2]
なお、この研究には屋外に出る猫や狩りをする猫も含まれています。
また、この0.3%は「飼い猫から人が感染する確率」ではありません。
この先にも、感染成立までには条件がいくつかあります。
条件3 排泄されたばかりの便では、まだ感染できない
ここは、トキソプラズマについて特に誤解されやすいポイントです。
猫から排泄された直後のオーシストは、まだ感染性を持っていません。
排泄後、環境中で成熟して初めて感染性を持つようになります。
感染性を獲得するまでにかかる時間は、一般的に1〜5日程度です。[3][4]
そのため、米国CDCやCompanion Animal Parasite Council(CAPC)も、猫のトイレを毎日清掃することをトキソプラズマ感染の予防策として推奨しています。[3][4]
つまり、
猫が排便した → その日のうちに便を取り除いた → その便からトキソプラズマに感染する
という感染経路は、基本的には成立しません。
便の中にそもそもトキソプラズマのオーシストが存在し、さらにその便が一定期間環境中に残され、オーシストが感染性を獲得している必要があります。
条件4 さらに、感染性オーシストを「口から摂取」する必要がある
トキソプラズマは、猫の糞便に触れただけで皮膚から感染するわけではありません。
感染性を持つオーシストを経口摂取することによって感染します。
たとえば、
排泄から時間が経っている感染性オーシストを含む便や、それによって汚染された猫砂などに触れる
↓
手などにオーシストが付着する
↓
十分に手を洗わない
↓
その手で直接食べ物を食べたり、口に触れたりする
↓
感染性オーシストを口から摂取する
というところまで必要です。
CDCが、猫砂を処理する際には手袋を使用し、その後、石けんと水で手を洗うことを推奨しているのもこのためです。[4]

つまり、全部並べると?
妊娠中の女性が自分の飼い猫から初めてトキソプラズマに感染するためには、少なくとも次のような条件が重なる必要があります。
① 妊婦自身が、それまでトキソプラズマに感染していない
↓
② 飼い猫が、獲物の捕食、生肉、感染性オーシストの摂取などによってトキソプラズマに初感染する
↓
③ その猫が、オーシストを便中に排泄する限られた時期にいる(1〜3週間程度)
↓
④ その便が1日以上環境中に残り、オーシストが感染性を獲得する
↓
⑤ 妊婦が感染性オーシストを含む便や、それによって汚染された猫砂などに触れる
↓
⑥ トイレ清掃後に十分な手洗いをしない
↓
⑦ その手などを介して、感染性オーシストを口から摂取する
ここまできて初めて、妊婦への感染が成立する可能性が生じます。
そして胎児への感染を考えるなら、さらに母体から胎盤を介して胎児へ感染する必要があります。
では、その確率は何%?
「妊婦が自分の飼い猫からトキソプラズマに感染する確率は○%」
と正確に示せるデータはありません。
猫の飼育環境や食事、屋外へのアクセス、トイレの清掃頻度、人の衛生習慣などによって、それぞれの条件が成立する確率が大きく異なるためです。
しかし、逆に考えれば、これらは自分たちで減らすことのできるリスクでもあります。
・猫を完全室内飼育にする
・生肉を与えない
・トイレの便を毎日取り除く
・掃除の後には石けんで手を洗う
仮に妊娠中というタイミングで飼い猫がトキソプラズマに感染し、1〜3週間程度の間にオーシストを排泄していたとしても、便を毎日取り除けば、オーシストが感染性を獲得する前に除去することができます。
「猫がいるから危険」なのではなく、感染が成立する条件を知り、その経路を一つずつ断つことが重要なのです。
そして幸いなことに、そのために必要な対策は、どれも日常生活の中で無理なく実践することができるものです。
妊娠中にするべきことは、猫を手放すことではない
妊娠中、猫のトイレを自分で掃除をする必要がある場合には、毎日便を取り除き、掃除後には石けんで十分に手を洗いましょう。手袋を使用することも有効です。[4]
猫はできるだけ室内で飼育し、生肉を与えないことも重要です。
そして、トキソプラズマと聞くと「猫」を思い浮かべる方が多いかもしれません。
しかし、人への感染を考えるうえでは、むしろ加熱不十分な肉や、土壌、十分に洗浄されていない野菜や果物など、猫以外の感染経路に注意が必要です。[4]
実際、日本の妊婦を対象とした先ほどの研究でも、猫の飼育そのものとの有意な関連は認められず、生肉の摂取が感染リスクと関連していました。[1]
そのため、
- 肉を十分に加熱する
- 野菜や果物をよく洗う
- ガーデニングなどで土に触れるときには手袋をする
- 作業後には十分に手を洗う
- 猫のトイレは毎日清掃する
といった、感染経路に応じた対策が重要です。
トキソプラズマは、確かに胎児に重大な影響を及ぼす可能性のある感染症です。
だからこそ必要なのは、必要以上に、盲目的に、猫を怖がることではありません。
トキソプラズマがどこから、どのように感染するのかを正しく知り、その感染経路を断つことです。
妊娠したからといって、それまで一緒に暮らしてきた猫を手放す必要は、もちろんありません。
守るべきなのは、赤ちゃんか、猫か。
そんな二者択一ではありません。
正しい知識と適切な対策があれば、どちらも守ることができます。
【おまけ】トキソプラズマは「感染したら必ず怖い病気になる」ものでもない
トキソプラズマという名前だけを聞くと、非常に恐ろしい感染症のように感じるかもしれません。
しかし、健康な成人が感染した場合、多くは無症状です。
さらに興味深いことに、トキソプラズマの潜伏感染と、行動特性との関連を調べた研究もあります。
トキソプラズマに感染したネズミでは、猫の匂いに対する警戒や回避行動が弱くなることが報告されています。[6]
トキソプラズマにとって猫は、生活環を完成させるために重要な「終宿主」です。そのため、感染したネズミが猫に捕食されやすくなるような行動変化は、結果としてトキソプラズマの伝播に有利に働く可能性があるのです。
そして実は、人でもトキソプラズマ感染と行動特性との関連が研究されています。国単位の解析では、トキソプラズマ感染率と起業活動や起業意欲との関連も報告されています。[5]
もちろん、こうした研究で示されているのは因果関係ではなく、統計的な関連です。
もし人でも感染とリスクに対する捉え方に何らかの関係があるのだとしたら、なかなか興味深い話です。
ちなみに私自身、「もしかして感染しているのでは?」と思い当たる節が多々あり、興味深くこの研究に注目しています。
こうした研究からもわかるように、「トキソプラズマに感染する=ただちに重篤な病気になる」という単純な話ではありません。
大切なのは、誰が、いつ、どのように感染することが問題なのか。
それを区別して考えることです。
参考文献
[1] Sakikawa M, et al. Anti-Toxoplasma Antibody Prevalence, Primary Infection Rate, and Risk Factors in a Study of Toxoplasmosis in 4,466 Pregnant Women in Japan. Clin Vaccine Immunol. 2012.
[2] Ito Y, et al. A survey of Toxoplasma gondii infection in domestic cats in Hokkaido, Japan. J Vet Med Sci. 2018.
[3] Companion Animal Parasite Council (CAPC). Toxoplasma gondii
[4] Centers for Disease Control and Prevention (CDC). Toxoplasmosis: Causes and How It Spreads
[5] Johnson SK, et al. Risky business: linking Toxoplasma gondii infection and entrepreneurship behaviours across individuals and countries. Proc Biol Sci. 2018.
[6] Vyas A, et al. Behavioral changes induced by Toxoplasma infection of rodents are highly specific to aversion of cat odors. Proc Natl Acad Sci U S A. 2007;104(15):6442–6447.